自己紹介と、公衆衛生に進んだきっかけについて教えてください。
脳神経外科になることを志していた医学部の学生時代に「ちょっと変わった場所に行ってみよう」と思い、バングラデシュを訪れました。そこで非常に強いカルチャーショックを受けました。路上には乞食の人がたくさんいて、日本のJICA(当時は国際協力事業団、現在の国際協力機構)が支援して建てた立派な循環器病院があるにも関わらず、中はガラガラ。一方で病院の外には多くの病人が横たわっていて、まるで戦場のような状況でした。
なぜそんなことが起きていたかというと、医療費が全て自己負担だったからです。貧しい人たちは、医療を受けたくても受けられなかった。その現実に非常にショックを受けました。バングラディシュには10日間ほど滞在したのですが、その間に自分の将来像がすべて変わり、卒業後は公衆衛生という分野に進みたいと思うようになりました。
公衆衛生というのは、医者と患者の1対1で向き合う臨床とは違って、医師やさまざまな専門家が1対多数の関係で、集団全体の健康を扱う分野です。開発途上国のように貧困層が多い地域では、個人ではなく、地域や集団に働きかけることで、栄養状態や環境を改善し、健康を底上げしていく。そういうアプローチの重要性を、現地で肌で感じました。
帰国後、私がキャプテンをしていた水泳部の後輩たちを無理やり誘って「国際医療勉強会」を立ち上げました。当時はインターネットもないので、情報は限られていました。世界保健機関(WHO)やユニセフに手紙を書いて、国際保健に関する資料を送ってもらったことを覚えています。数カ月も経った忘れた頃にようやく資料が届いて、みんなでプライマリヘルスケア、つまり貧困層に対する医療アプローチについて、手探りで勉強していました。
卒業後はすぐに臨床ではなく公衆衛生の道へ?
はい。医学部ではすべての科を一通り学ぶのですが、卒業後に医師国家試験を受けて、自分の関心ある専門領域に進むのが一般的です。私の同期はほとんど臨床に進みましたが、私はその中で唯一、公衆衛生の道に進みました。
公衆衛生を学ぶにはまず保健所の現場が必要だと考え北海道庁に入りました。そこで現場の実務を経験しました。新型コロナの時にも話題になりましたが、保健所では地域の健康を支える幅広い仕事を担当しています。
保健所での経験と、その後の国際協力の道について教えてください。
若くして保健所長に任命されました。当時も今もそうですが、保健所長は医師でなければならないと法律に定められているため、私は全国でも最年少の所長でした。
勤務地は北海道の地方、牧歌的な小さな町の保健所で、町長や町議会議員など、私の父親世代の方々と話し合う機会が多くありました。地域の病院経営、高齢化の進行、そうした地域課題に真正面から向き合う日々でした。とてもやりがいがあり、楽しかったですね。
国際協力の中で、ブラジルでの経験があったとうかがいました。
そうです。私の最初の派遣先がフィリピンだったので、当初はアジアで国際協力の活動を続けたいと思っていました。ところが、東京にある国立国際医療センターに赴任した初日に上司から「お前、ブラジルへ行け」と一言。正直、ブラジルはサッカーとカーニバルぐらいのイメージしかなく、全く縁を感じていなかったのですが、命令ならばと行くことにしました。派遣先は、東北ブラジルの中心都市レシフェにある大学でした。ここで私は、日本側のプロジェクトリーダーとして「健康なまちづくりプロジェクト」を担当しました。
「健康なまちづくり」とは、具体的にどんなものですか?
まちづくりといっても、人によってイメージは異なるでしょうから、まずは定義を明確にし、プロジェクト期間内に何を達成するか、予算はいくらか、そういった計画をゼロから設計するところから始めました。
現地の言葉や文化の壁はありましたか?
ポルトガル語ができなかったので、急遽覚えました。交渉は自分の拙いポルトガル語と、プロの通訳の力を借りながら進めていきました。ブラジルはとにかく格差が大きい国で、豊かな人と貧しい人が同じエリアに暮らしています。
医療というより、社会的課題が重かったんですね。
そうです。現地の健康課題は、医療の手前にある貧困や教育、差別、雇用問題に起因していました。これを専門用語では「健康の社会的決定要因」と呼んでいます。だから、従来の医療アプローチでは太刀打ちできない。健康とは、単にワクチンや薬の話ではなく、社会全体の構造が関わっているのだということを、改めて実感しました。
従来の「公衆衛生」の定義を超える取り組みだったわけですね。
まさにそうです。WHOが2005年に立ち上げた「健康の社会的決定要因委員会」が2008年に出した報告書でも、こうした社会構造が健康に及ぼす影響を強調していました。私たちがやっていたまちづくりは、まさにその考え方に沿った実践だったと思います。
ブラジルでの現場の労働者は、どんな環境だったのでしょうか?
サトウキビ畑で働く労働者の多くは、教育もなく農薬の危険も知らずに素手で農薬を扱い、12時間労働を強いられていました。農薬の影響で体調を崩しても、休めば減給。極めて過酷な状況でした。
私たちは彼らの健康を守るために、まず農薬の安全な扱いを教育し、手袋を会社に配給させるよう行政と連携して働きかけました。労働条件の改善、体調不良時の病院受診ルールの整備、そして市町村を通じた企業との団体交渉も行いました。医師というより、むしろ社会改革の担い手のような立場でしたね。
現場に寄り添いながら、構造に手を入れていくような。
そうです。こうした取り組みこそが、本来の「公衆衛生」だと私は思います。目の前の診療ではなく、根本的な生活条件から健康を見つめ直す──それが私のやるべき仕事だと実感しました。
ワクチンや薬の供給といった「医療的介入」だけでなく、人々の生活環境や行動変容、教育などを含めた「社会的介入」にシフトする必要があると感じました。その実践の中で、科学的な根拠やエビデンスの重要性を痛感し、私はもう一度疫学統計を学び直そうと決意したんです。
そこから大学の教員になられた、と。
はい、40歳を過ぎていましたが、母校から教員としての声がかかり、大学に戻ることにしました。それ以降、グローバルヘルス──当時は「国際保健」と呼ばれていましたが──を研究・教育の柱に据えてきました。
その「国際保健」と「グローバルヘルス」の違いについて教えていただけますか?
以前の「国際保健」は、先進国が発展途上国に技術支援を行うという、ある意味で上から目線のアプローチでした。ですが2000年代にミレニアム開発目標(MDGs)が登場した頃から、「グローバルヘルス」という新しい視点が広がりました。これは地球全体の健康課題を共有するという考え方で、先進国も途上国も同じ立場で、共通の問題に取り組もうというものです。
つまり、もはや“支援する側・支援される側”ではない、と。
そうですね。例えば、お母さんと子どもの健康、環境汚染、地球温暖化──こういった課題は先進国にも当てはまります。世界を同じ土俵で捉え、健康を考える。それがグローバルヘルスですし、私が大学で学生に伝えたいことでもあります。
大学の教員になってから、なぜ専門を高齢者対策にシフトさせたのですか?
私が開発途上国で支援してきた領域は、感染症であったり母子保健でした。それは戦後の日本が大きな成果を上げた領域でもあったわけで、日本人専門家の支援が世界から求められている領域でした。しかし時代は進み、これからの途上国には「高齢化」という問題が浮上してきたのです。そこで、大学で若い人たちに教えることは、高齢者対策なのではないかと考えるようになり、自分の専門領域もそれにシフトしていきました。
世界の先頭を切って高齢化が進んだ日本には、高齢者対策の知見が豊富にあります。しかし、日本の制度はお金がかかり過ぎます。そこで、日本もさることながら途上国にその経験を移転するにはお金のかからない方策を考え出さなければなりません。
お金をかけない高齢者対策とは、具体的にどういうものなのでしょうか?
大きく分けて2つあります。1つ目は「予防」、つまり高齢者が要介護状態にならないようにすることです。正確に言うなら、要介護状態になることをできる限り遅らせることです。介護予防という概念のもと、できる限り元気な状態を維持してもらう。2つ目は、施設ケア中心のシステムから「在宅ケア」へのシフトです。日本は2000年に介護保険制度を作り、施設中心のケアを進めてきましたが、現在はそれが財政的に持たなくなってきています。今後は自宅でケアが受けられるような体制を強化していく必要があります。
在宅ケアに切り替えるには、まだ課題も多いのでは?
そうですね。施設ケアのシステムがすでに構築されている中で、そこから在宅ケアへ移行するのは簡単ではありません。既存の施設の経営維持もありますし、在宅ケアでは家族にかかる負担も大きくなります。実際、1980年代には「介護疲れ」という社会問題が起こり、今でも年間約10万人が介護を理由に仕事を辞めていると言われています。
負担を減らしながら、どう元気な状態を維持するかがカギなんですね。
そうです。私たちは今「フレイル」という概念に注目しています。これは「虚弱」という意味で、健康な高齢者が要介護状態に向かっていく途中段階のことを指します。この状態の早期発見・早期介入ができれば、元気に戻れる可能性が高い。実際、国や東京都が行った調査では、65歳以上の高齢者の半数近くがフレイルまたはその予備軍とされています。
では、その「フレイル」をどのように見つけ、介入するのでしょうか?
そこがまさに今、私たちが取り組んでいる研究です。従来は身体的な側面(筋力や歩行能力など)やオーラルフレイル(口腔機能)など、分野ごとにバラバラに評価されてきました。しかし人間はもっと多面的な存在です。そこで私たちは、身体・栄養・社会性(人との関わり)・スピリチュアル(生きがい)・認知機能(認知症など)・精神状態(うつ傾向など)といった複数の要素を、AIやIT技術を使って「包括的に評価するツール」の開発を進めています。
今日も杉並でそのためのデータ収集をしていました。最終的には、スマートフォン程度の端末で簡単に使えるようにして、誰でもどこでも実施できる評価法を目指しています。特に開発途上国でも使えるよう、コストを抑えたシステム開発を進めています。
これからの未来について、特に懸念していることや注目しているテーマはありますか?
私は学生たちに「南海トラフ地震は遅くとも20年以内に起こる」ことを念頭に入れておくように話しています。政府の予測もそれを裏付けており、大阪や名古屋が津波で甚大な被害を受ける可能性がある。そして、過去の事例から言えば、南海トラフ地震の後に富士山が噴火するケースが何度も起きている。もしそれが現代に起きれば、東京には約5cm、横浜には10cmの火山灰が降り積もると予測されています。
5cmの火山灰で、そこまで影響があるのですか?
はい。現代社会はコンピュータやインフラに強く依存しています。たった5cmの火山灰で水道、交通、通信、電力が一気に停止し、都市機能が完全に麻痺してしまう恐れがあります。これはかつてのように「なんとかなる」では済まされません。江戸時代の宝永の噴火の時はなんとか生き延びられましたが、現代は人口密度も社会構造も全く違うのです。
そのリスクに備えて、学生には何を伝えているのでしょうか?
「自分の命を守る準備をすること」、そして「その後の社会復興をどう支えるかを考えておくこと」です。私たちは、もしかしたら第二次世界大戦後のような社会のすべてがリセットされる状態になるかもしれない。だけど、そこで新しい社会をどう築くかを、今のうちから考えておくべきだと思っています。
決して煽っているわけではない、と。
はい。現実に向き合い、想像力を働かせて、備えておくこと。それがこれからの若者に必要な「生きる力」だと信じています。もちろん私自身はもうその時には生きていないかもしれませんが、今の学生たちがその時代を生き抜いていくために、考えるきっかけを持ってほしいと思っているんです。
いま私が取り組んでいるのは、「お金をかけずに高齢者が元気で生きていける仕組み」の開発です。おそらく南海トラフ地震のような大災害が起これば、介護保険も医療保険も機能しなくなります。ちょっと歯が痛いからといって歯医者に行ける時代は、もしかしたら終わるかもしれない。そのときに備えて、最低限でも元気で生きられるしくみが必要なんです。
それは日本国内にとどまらず、他国でも求められていくものなんですね。
はい。国連は「高齢化社会」の定義を示しています。高齢化率(65歳以上の割合)が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と定義されます。日本はすでに30%近く、まさに「超高齢社会」のど真ん中にいます。アジアやラテンアメリカの開発途上国の多くが、まさに急速に高齢化に直面しつつあります。
他の国も、いずれその段階に到達するんですね。
そうです。たとえば、つい最近タイが14%を超え、高齢社会に入りました。ただし、そのときの一人当たりGDPは約7,000ドル。日本が14%を超えた当時は約20,000ドルありましたから、タイは日本の3分の1以下の経済規模で同じ問題に直面していることになります。ということは、タイでは介護保険制度などは経済的に導入できないのではないかと予想しています。これはタイに限らず、周辺国でも同じなのだと思います。
現場では、どんな様子が見えてきているのでしょうか?
私がタイの高齢者の自宅を訪問したときに目にした光景は衝撃的でした。オムツも替えてもらえない高齢者が臭いまま放置されていました。タイの農村の家屋は高床式なのですが、犬が暮らすような1階に、高齢者が寝かされていました。衛生環境もプライバシーもありません。こういう状況は開発途上国のどこにでも見られる状況になっています。タイだけでなく、メキシコやチリ、ブラジルなどでも見てきました。まさに「高齢化の津波」が多くの開発途上国に迫っているのです。
まさに津波が目の前に見えている、ということですね。
そうです。でも、多くの国はまだ浜辺でのんびりとビールを飲んでいるような感覚でいます。危機が迫っているのに、対策を講じるスピードが追いついていない。だからこそ、私たちは「お金をかけない」「持続可能な」「高齢者を排除しない」社会の仕組みを、世界全体に作る必要がある。それが今、公衆衛生が担うべき最大のテーマだと思っています。

