水野さんが、今の会社でエリアマネジメントとして活動されている背景や経緯について教えてください。

はい。もともと、うちの会社は1960年代に創業しました。1964年の東京オリンピックを控えて、青山通りが拡幅されることになったんです。それまで幅員が20メートルだった青山通りを、オリンピック開催時の交通混雑を緩和するために40メートルに広げる必要があった。そこで沿道に住んでいた人たち、つまり通りに面して商売をしていた方たちが立ち退きを迫られることになったんですね。

ただ、そうした人たちが町を離れてしまうと、青山という場所自体の活気がなくなってしまう。当時は自宅兼店舗という形が多く、住む場所も商売の場も一緒だったので、まさに生活の基盤を失うことになってしまうわけです。そんな状況の中で、私の叔父が「どうにか青山に残れる方法はないか」と考えました。

ちょうど叔父は当時、日本住宅公団、今のUR都市機構に勤めていたので、「自分の会社の力を使って、何か街づくりができないか」と。ハードの面で街を守ることができないかと考えたんですね。そこで、立ち退きを迫られていた地主さんたちと話し合いを重ね、彼らに支払われる立ち退き料と、通り拡幅によって表通りに面することになる奥の住民の土地を合わせて、新しくビルを建てようと。

そのビルの中で、今まで通り商売ができるようにし、住宅部分も上に載せて、住みながら仕事ができる仕組みを作ろうとしたんです。そのために、当時の会社の力を活用して4棟のビルを建てました。

さらに、地権者法人という仕組みを作って、底地権者と借地権者をどう運用していくかも検討しました。借地権を持つ地主さんたちの集団を法人化し、その法人がビルのオーナーになるようにしたんです。一般的には底地と借地は別々に所有されますが、ここでは法人の構成員が底地権者で構成されるという特殊な形で、借地権者が法人を通じてビルを所有するような仕組みになっている。

この仕組みで、青山通りに4棟のビルを建てました。場所で言うと、かつてピーコックのビルだったところ、オリンピック(スポーツ店)が入っていたビル、ブルックスブラザーズがあったビル、そして現在は天馬屋(カレーパン屋さん)が入っているビルです。

ただ1階部分が地権者のお店だけでは弱いので、街づくりの観点から、当時の大丸ピーコックや東急ストア、第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)なども誘致しました。商業テナントのリースも手がけながら、ビルのPM(プロパティマネジメント=資産管理)やBM(ビルマネジメント=建物管理)を担う会社として今の会社が誕生しました。それが、私が今所属している会社なんです。

60年にわたってPMとBMを担ってきましたが、実はその後背地には都営住宅が建っています。もっと前には、青山市販学校という、今の学芸大学の前身があって、戦後は引き揚げ者のためのバラック住宅が建てられ、その後に都営住宅になりました。

今の青山のまちづくりで、コンセプトのきっかけになったものや、課題意識とはどんなところにあったのでしょうか?

港区さんが「まちづくりビジョン」をつくろうとしていたこともあって、「青山としても早めに手を打たなきゃ」と思ったんです。それでURさんの協力を得ながら、地域課題を整理して、「青山としてどんな街を目指したいか」をつくった時期がありました。

ただ、その時URさんなどと挙げた課題って、たとえば「違法駐輪が多い」とか「歩道が狭い」とかで…。それは確かにあるけれど、青山特有の課題ではないなと私は感じていました。どこの街もそういう問題はあるし、「これは青山じゃなきゃいけない理由にならないな」って。

一般的な課題とは別に、「青山ならでは」の視点があったということでしょうか?

そうなんです。うちの社長をやっている中井氏は、この地域の地権者で、また医師でもあるのですが、その方の発想がまったく違っていたんです。彼は医者なので、街を人間の体になぞらえて考えるんですよ。

人の体、ですか?

はい。彼は「臓器別医療には限界がある」と考えていて、たとえば肝臓が悪いから肝臓だけを見る、ではなくて、気の巡りや血の流れ、神経の流れ全体が整えば、自然と病気も治るっていう思想なんです。今の街のあり方って、その臓器別医療に似てると彼は言っていて、「巡り」が良くないと。

なるほど。ビルが密集して呼吸ができない、みたいなことでしょうか

まさにそうです。彼が言っていたのは、「昔の青山では、寝転がっていると汽笛が聞こえたり、富士山が見えたりした」と。でも今はビルが建って、窓が開かない。それって人間の体で言えば「息ができない」状態だと。

かなり根本的な思想ですね。

そうですね。「日本の気候や風土に合った街をつくるべきだ」と言っていました。「緑地は率の問題で決めるんじゃない。まず緑が必要なんだ」って。建物が呼吸を遮断してはいけない、自然の循環の中に建物も人もあるべきだ、というのがその人の考えでした。

それが今のまちづくりにも影響していると?

はい。その考えに共感するデベロッパーや建築の専門家たちが少しずつ増えていきました。彼がよく言っていたのは、「ビルの外構をつくるんじゃなくて、森の中に建物を建てるべきだ」と。

具体的に、まちづくりの中で印象的だった出来事はありますか?

昔から続いている100年の歴史を持つ酒屋さんのおじいさんと話したときのことが、すごく印象に残っています。ある日、防犯カメラの設置の話があって、そのおじいさんがものすごく怒ってたんです。「自分が店を出しているこの場所の安全は、自分が見て守ってる。防犯カメラに任せるのは“魂を売ること”だ」って。

商売と街への責任がつながっているわけですね。

そうなんです。今の1階の店舗に入っている人たちは、地代を払ってテナントとして入っているから、街に対して「責任がある」なんて発想はなかなか持たない。でも、これからの時代は、テナントも住民も、みんなで街に関わる責任をシェアしていく必要があると思っています。

中井さんの考えを、今どのようにご自身の中で消化しているのでしょうか?

もちろん、彼の思想はフィロソフィーとして自分の中にしっかり根付いています。ただ私は医者ではないし、まだそこまで体験や野望を持っているわけではない。でも、両輪でやっていかなきゃいけないとは思ってます。彼の考えを監視人のように守るのと、街に生きる人間としての実感、この両方が大事だと思っています。

具体的には、どのように中井さんが持っていた思想を実際の街づくりに反映していったのでしょうか?

たとえば緑地の計画、建物の通気性、街の配置など、少しずつ実現に向けて動いています。

かなり抽象的な哲学を現実に落とし込んでいったわけですね。

はい。ただ思想だけじゃなくて、日本家屋にあった「干渉地帯」──玄関で靴やコートを脱ぐ、手を洗うなどの習慣も大事にしていて、都市にもそういう緩衝空間が必要だというのが彼の持論です。

現代の都市設計でも取り入れたい考えですね。

「風が通る」「光が入る」「自然に近づく」──そういう当たり前だったことを、もう一度取り戻そうとしていたんだと思います。

それを伝えるのが、ご自身の役割なんですね。

そう思っています。私は中井さんの思想を「翻訳」して伝える役目。でも私は医者でも学者でもないので、そこに哲学的な理想だけでなく、実際に青山に住んでいる人、働いている人たちのリアルな感覚や日常の喜びをどうつなげていけるかを大事にしています。

街づくりって大きなビジョンも必要だけど、「誰かと目が合って挨拶する」「会話がある」っていう、人間的なつながりが根っこにあると思うんです。

では、街に対する哲学や思想を実務とどう結びつけているのでしょうか。

テナントさんや住民と話しながら、何があったら楽しくなるか、何を大切にしたいかを聞いています。自分たちが街に関わっているという実感を持てるように、場づくりやコミュニケーションのきっかけを丁寧に設計しています。

中井さんの“思想”と、日常の“営み”の橋渡しをされているわけですね。

青山という街の「内側の人」として、外の人たちとつなげていく役割を続けていきたいと思っています。